虎の威を借る狐たち

学歴や会社の知名度、そういうものに固執する弱い僕達

仕組みの中で頑張ることの意味-その2

就活が終わってからというもの、僕はずっともやもやしていました。

すごい会社から内定をもらった知り合いや、周りの同期の話を聞くと胸が苦しくなりました。

 

僕は自分のことを、「負け組」だと思うようになったのです。

それまで根拠もなく信じていた、ふわふわとした明るい未来が、永久に途絶えたような気がしたのです。

 

それからというもの、僕は色々な本を読み漁るようになりました。

今自分が持っている価値観の中に自分を当てはめると、人生が暗く感じられたからです。就活に上手くいかず、周りを妬む、そんな自分が嫌でした。

だから、考え方を変えたかったのです。

 

大きくて有名、年収が高い会社に入ることが大切だというなら、僕はずっと周囲に対して引け目を感じて生きていかなくてはいけない。

そんな人生を送りたくなかったのです。

だから僕は、のめりこむように本に没頭しました。

 

本の世界は、僕が過ごす日常の世界よりもずっと豊かで自由でした。

周りにはいないような多様な考え方をもった人がいて、惜しみなくそれらが綴られています。今まで考えたこともないような価値観を本は教えてくれました。

 

そして、思ったのです。

 

自分は本当に、せまい価値観の中に縛られていたのだなと。

 

当たり前だと思っていた学校教育。

当たり前だと思っていた働き方。

当たり前だと思っていた倫理観。

 

当たり前だと思っていた常識は、全て世の中の都合によって決められてきたもので、絶対の真理なんかでないということ。

同じ価値観の中にいるだけではわからなかった、異質の価値観に対する偏見と差別。

 

例えば、学校というもの一つとっても、

周りと上手くやれないものは人生の落伍者でした。

休学、退学なんてもってのほか。枠から外れたものは負け犬で、みじめな末路を送る。

 

僕はそうずっと思っていました。

きちんと与えられたことをこなす僕は、大丈夫。

 

でも本来の学校制度は、工業化が進んだ時代に、工場で働く上で必要な知識を詰め込んだ労働者を効率的に育成するために生まれたものです。

だから、お金の知識だとか、会社の仕組みだとか、そういう余計な知識は勉強させませんでした。四則演算と文字さえよめれば、それでよかったのです。

 

だから、学校の教育は完璧ではない。絶対の正義ではない。

誰かの都合によって作られた一つの型なのです。

 

当然その型に合わない人だっている。

それなのに、型に合わない人は駄目な奴で、

型に上手くはまっていられることが正しいなんて、誰が決めたんでしょうか。

 

僕は、わりと上手く型にはまっていられた方でした。

型にはまらない、一部の人たちを痛い人だと思っていました。

 

「青臭い、夢見がちな、恥ずかしい奴。

自分が上手くできないからって、世の中のせいにして。」

 

世の中が自分と同じ価値観だということに安心して、自分の正当性を主張し、

他人を糾弾していたのです。

 

そして、今。

就職活動が終わって僕は、

自分のその価値観に苦しめられることになったのでした。