やらないことを決める
6月に就活を終えてからというもの、僕はずっと就活の最中に感じたもやもやについて考えていました。
それは、世間の一般常識を疑わず思考停止していた僕にとって、初めての価値観の揺らぎでした。
それまで自分はずっと正しいと思っていました。
自分の生き方こそが、王道で、幸せになれるんだと思っていました。
みんなが自分と同じように生きていて、それが「普通」だから「安全」。
学生で起業したとか、ベンチャーに入ったとか、そういうのは一部の「頭のぶっとんだ、リスクを顧みないヤバイ人」。
実名でブログやったりyoutubeで顔出ししている人は「ネットリテラシー低めの馬鹿」
twitterとかInstagramで必死こいて投稿しているのは「自己顕示欲丸出しの痛い奴」
大学中退なんて「おちこぼれ」
自分は安全な所にいて、そうした人たちを遠目からみて冷静に分析している常識人だと思っていました。
でも、本当はわかっていました。
そういう恥ずかしいこと、痛いこと【=リスク】を取ることでしか、自分の望むような結果はついて来ないということ。それに気づいて、行動できるかが重要なのだということ。
気づいていながらそれまでの考えを捨てられなかったのは、
簡単な理由です。周りも皆「常識人」的な考えの人しかいなかったから。
類は友を呼ぶ。
凝り固まった「常識人」には、同じように凝り固まった「常識人」が集まっています。
僕の場合は、両親が「常識人」でしたから、幼いころから「常識」を学びました。
学校は行くもの
有名な大学に行くことが一番良いこと
良い大学に行くと就職に有利なこと
大企業に入ると安心だということ
結婚はするもの
60歳で定年すること
平和であること
平等であること
頑張れば必ず報われること
勉強は学校の試験のためのもの
勉強はつまらない
つまらないことでもやらないといけないこと
仕事はつまらないこと
仕事は義務だということ
お金は大事でないということ
真面目に働いていけばお金に困らないということ
日本が世界の中心だと思うこと
少しでも分別のある子どもだったら、
「それって本当にそうなの?」って、疑問に思うでしょう。
けれど僕は「いい子」でした。
言うなれば親や周りの意見を素直に聞く、「思考停止キッズ」でした。
親を責める気は毛頭ありません。
彼らは自分の人生を生きているだけです。
僕が勝手にその人生こそが常識なのだと信じて疑わなかっただけなのです。
両親の人生を模倣しようと思っていました。
人生の模倣というものは、価値観の模倣です。
よくわからないまま、考えないまま、他人の「価値観」に合わせて自分の人生を生きようとしていた。
そのことが、就職活動を通してわかったのです。
これが、僕だけのことなのか、それとも多くの学生にとっても起きていることなのかは分かりません。気づいてしまった自分の未熟さを、周囲にさらけ出す勇気がありませんので、周りがどう思っているかもわからないのです。
僕と同じように悩んでいる人がいるかもしれない。
その一方で、とっくにそんなことみんな考え終わっていて、今更かよ、と冷めた目で見られることが怖い。
あるいは、逆にそんなこと全く考えていなくて、なに青臭いこといってるんだ、と思われるのが嫌だ。
どちらにせよ、周囲に喋ることによって、マイナスな影響しか起きないような気がするのです。
考えてみれば、僕と僕の周りは、いつも表面的な会話しかしていませんでした。
誰それが誰それと付き合っただの、別れただの、結婚はいつだの、漫画の展開の話だの、、、、
働くとは何か、どう生きることが自分の幸せか、なんて話は、タブー視していました。
政治や宗教と同じ、他人が踏み込んではいけない聖域だから、と。
でも、本当はそういう話を議論すべきだった。
なのにできなかったのは、なぜだろう。
浅い付き合いしかしてこなかったのか。
そうかもしれない。
それか、僕も彼らも、ちゃんと考えて生きていなかったのだろう。
生き方に正解はないけれど、
生き方を自分で考えて選べる環境があるのに、
そうしないのは本当にもったいない。
気づくのがおそかったです。
だからもう時間は無駄にしたくない。
あれもこれも、と手を出すのではなく、
まずはやらないことを決める。
やると決めたことはやり抜く。
言うは易し、行なうは難し。
思いだけでは人は変わらないから、
今は環境作りに、精を尽くしたいと思います。